middleagedtweets’s blog

放言居士でやりたいな

  先日学生らしき若者が、リュックを背負い原付のバイクに。夏休みだし、一人旅かな。この先に近頃夕日がインスタ映えする海岸があるから、きっと向かってるんだろうなぁと。でもよく見ると、かなり遠い所から。前後に友達とかの連れは見当たらない。高速は走れないし、ひたすら一般道を一人で西に向かって来たのだろう。でも大阪とか京都なんて、広い交通量の多い道をどうしたんだろう。ここいらの様な田舎道はともかく。原付って、一日で何キロくらい走れるのかな。30km/hで8時間だと、240km。無理だ無理だ。妄想は駆け巡る。

 なんだか気になり、信号待ちで観察。お尻も痛そうだ。バックミラーに映る顔が、女の子だ。でもなんだかその勇気に触発されたような気がした。そういえば我が家の娘も学生時代、知らぬ間にバイクを買っていたそうな。後で聞かされたからよいが、相談されたら止めとけと言うだろうなと、ふと思い出したりした。若い時は、怖いと思わなかったことも覚えている。どうにかなるさと、進むだけだった。でもそんな思いは、いつの間か消え失せた。

 追体験は夢を掻き立てるが、経験は夢を委縮させるのか。そうかもしれない。一度恐怖を覚えたことは、なかなかもう一度とはいかない。だけどやってみないと、進歩なんてしなくなる。やっかいなものである。個人差も大きいのだろうが、事を起こそうとして、そのプランの稚拙さが分からないから実行できるのかな。この年になると、いやいやこのルートだと人家も無いし、食事はともかくガソリンも持たないかも知れない。そんな当たり前のことが見てくるからかな。全く事情の分からないバイク学生が、私の妄想を暴走させたものである。

 結局のところ若い頃のあん時ゃ参ったな、っていう経験で社会性を身に着けてきた。の社会性が足を引っ張っているのだろう。それと何も無いことはいいけど、家族だの立場だの地位だのていうヤヤコシイのがくっ付いてきて、安パイばかり選ぶんだろう。たいしたものじゃないのだが、それが大事になっているのだ。失うことの恐怖に、如何にして対応するか。中高年の冒険は、心の中から始まっているのだ。